UCHEW-NISSHI

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ミヒャエル・エンデ『自由の牢獄』



通常児童文芸の巨匠として語られるエンデ。

彼の名前ではいまいちピンとこないという人も、『はてしない物語』(ネバーエンディングストーリー)や『モモ』と聞けば一度は目にしたことがあるはずだ。

通常児童文学の作家の作品は、いわゆる純文学の作家のそれとは違い、思想という議論の俎上にはのりにくい。

しかし、私はこのエンデこそ、そういった文脈で語られるべき作家であり、それだけの含蓄を持った作品を数多く残している作家であると思っている。


エンデの遺した、決して児童向けとはいえない短編集では、この『自由の牢獄』と『鏡のなかの鏡』の2作を読んでいる。

物語の色彩が強く、読者に行間を読むことを強いてくる印象の強い『鏡のなかの鏡』(それは全く作品の価値を下げるものではないし、私個人的にはそのほうが好きなのだが)に対してこの作品はよりストレートに彼の考え方を伝えるものが多い。



その中でも特に表題作の「自由の牢獄」は信仰と物質世界、資本主義、そして生き方という意味での哲学に対する彼の考え方を強く表している。

まず、主人公の心情の変化そのものが神への信仰のあり方とそれを基にした人生の生き方それ自体を示している。

そして、彼と”悪魔”との対話はそのまま神の存在論証を翻訳したものといえる。



とはいえ、私は多くの日本人と同じように確固たる教義と組織をバックにした信仰をもたない人間であるため、その内容や是非について語ったところで説得力をもたせることは難しい。

ここで考えたいのはそれではなく、選択という問題についてである。

選択、それは私たちが絶えず行っている行為である。仕事における重要な局面での決断から毎朝食事をとるときにどこから食べるかというところまで、その回数は数えることすら馬鹿らしいものである。選択することなしには生きることさえ不可能であるといえる。とはいっても、その一つ一つに対して神経をすり減らしていては、時間がいくらあっても着替えを一度済ませることすらできないだろう。そうなることを防ぐために、我々は物事に決まりを意識/無意識下につくったり、つくってもらったりして過ごしている。占いや信仰はとどのつまりそうした選択を助けるためのガイドラインであるという考え方もある。

それを表しているのが、言うまでもなく無数の扉である。

信仰を失った主人公は、その中から一つの扉を選ぶことさえできずに、動けなくなり無数のときをそこで過ごす。その様子と題名から、さも彼が閉じ込められているかのように思えるかもしれないが、その実彼を閉じ込める檻など存在しないし、誰もそこから出て行くことを咎めていない。言うなれば、彼自身が、彼の自由意志が檻となり彼を閉じ込めているのだ。

選ぶことをあきらめそこに座っている彼は敗残者として特別視するだろう。自分とは違う、と。しかし、彼の選択しないという選択は我々も無意識のうちに陥っている状態なのではないだろうか?

時間というものが流れるものだと錯覚し、それに身を委ねているのだと誤解したまま、どこにも行かずそこにとどまる。それは、現代人の多くを表象する言葉なのではないだろうか。

確かにそれも一つの道である。事実主人公はそうすることを通して結末を手にしている。

しかし、それでも尚私は問いたい。扉を開く気にはならないのか?と。

未来など存在しない。そこには変化があるだけだ。扉を開いたときにそこで待っているものがなんであれ、それをどう捉えるかは自分次第である。恐怖するのも悲嘆にくれるのも自分自身である。それゆえ、我々を閉じ込める檻は自分自身以外の何者でもないのだ。



信仰を持たぬと考えている者も、ひとたび自らの選択ひとつひとつを意識の上で顕在化させれば自らがいかに何も決められない存在であるかがわかるだろう。

扉を開くために必要なものはなんであるか。人それぞれに違うであろうこの手段に、私は言葉と概念を用いて臨んでいる。





エンデは自らの作品が解釈されることを嫌っていたという。

これは解釈ではなく、彼の作品を出発点にした私の思考のちょっとしたメモである。

この本を読んでどう思うかは人それぞれだと思うが、そこに全力でむかっていくだけの価値を持つ本だと私は思っている。