UCHEW-NISSHI

Tokyo Based DJ KNK's Blog - 音楽関連、東京近辺のパーティ情報、各地の旅先での音楽に関連した散策、読んだ本や見た映画について

ドーナツの穴


小飼弾氏のブログに「意味」についての文章が載っていた。彼のブログ、とにかく更新頻度が高く、玉石混淆ながらおもしろい記述も結構多いので仕事中に暇なときは結構チェックしてたりする。

実は「ある」には、二通りの意味が「ある」。一つはドーナツのように、それだけで「ある」という状態。そしてもう一つは「ドーナツの穴」のように、なにかが「ある」ことによってはじめて「ある」という状態が生じる状態。


そうやって考えて行くと、「意味」というのはいわば「ドーナツの穴のそのまた穴」ということに気がつく。まず精神というのが肉体というドーナツの穴で、そしてその精神の穴が、意味。精神というのは肉体があってはじめて「そこにある」ものだし、そして意味というのは精神があってはじめて「そこにある」。

http://blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51183937.html


一般的に人が「意味」を想像するときは本質主義的になりがちだ。何かものがそこにあるとき、そこには意味が本質的に備わっていて、人はそれを用いて理解する、と本の中の情報のようなものとして捉えがちだ。しかし、意味とは生み出すものだ。ごく単純化していえば、ものを右から左に動かしたときにそこには“右から左へ”というコンテクストの変性が発生する。このような、ものそれ自体に付随するコンテクストを自分の利益になると思われる操作を加えていくのが行動であり、その結果、言語化/認識されたものが、行動の意味なのではないか。
よく「意味の有無」を即断し、行動の内容をひたすら合理化・スリム化していく人がいる。こうした視点に立つとそういった人はむしろ意味となるコンテクストのうち「自分の利益になる」とその人が或る時点で感じたものを固定化し、それに基づいて行動しているだけだということができる。ものはそこに存在するだけで無数のコンテクストをまとっている。それを瞬時に読み取って変化の結果を予測することはできるわけがない。意味の有無でもって行動の内容を判断しようとするのなら、今自分がどのような関係の上にたっていて、何を考えていて、その結果もののことをどう考えていて、そしてものに対して行動すると周囲の関係性はどのように変化して……ということをすべて考えなければならないことになる。
思考/認識とは言語化であり、このようなことを一瞬で処理することは難しい。それでは我々は何をもってして行動を選択するべきなのか。それは、自らの正しいという感覚/直観と、おれに対して与えられる限りの言語化された補強材料を与えていくことしかない。というより、多くの人は意識的に行動する場合そうして行動しているはずだ。言いたいのは、それに「意味」などというものをあたかも確固たるものとして存在するもののように名を冠すべきではない、ということだ。意味はコンテクストで存在するものであるが、自らの決断は主観的で独善的だ。それを混同してもいい結果には結びつかないのではないかと私は思う。


というか、そもそもこんなことを考えたのは今日帰りにモスバーガーで本を読んでいたら隣でカップルが延々別れ話をしていて、そこで男がひたすら意味がない意味がない、ということを繰り返していたからだ。つまり、ここで問題になるのは彼女の存在そのものに意味がないのではなく、彼との関係性においてその行動に意味が見出せないということだ。あたかも人格否定のような言い方をされていた彼女があまりにもかわいそうで、なんか言い返すとしたらなんて言うべきかなぁとか考えていたらこんな感じになった。ドーナツの穴、というわかりやすいたとえがあったおかげで(多分読み返したら崩壊している部分が多々あるだろうけど)有意義な時間をすごすことができた。