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関ヶ原合戦にまつわるエピソード1: 細川幽斎

最近、仕事で「関ヶ原合戦」についていろいろ勉強しています。

 

歴史を勉強することは日々生活している中にも新しい発見があったり、登場する時代に対する背景知識が備わることで歴史認識が変わったりして結構刺激的です。

 

関ヶ原の合戦」といえば、1日で終結した一大決戦というイメージが強いと思います。たしかに関ヶ原の本戦自体は1日で終わっているのですが、実際はその前後に様々な動きがあり、それらを知ると教科書では一言で片づけられがちなこの合戦が一気に魅力的なものになります。そうしたエピソードの中でいくつか自分が魅力的に感じたものがありましたので、紹介したいと思います。

 

関ヶ原の合戦自体は9月15日に現在の岐阜県不破郡関ケ原町付近で起こった、石田三成徳川家康が戦った合戦です。しかし、石田三成が実際に挙兵したのは1600年の7月中旬のことであり、合戦があった9月までの2ヶ月間、全国で様々なことが起こっていました。

 

例えば、7月中旬に挙兵した石田三成は、まず京都にある伏見城(現在の京都市のはずれ)と、丹後田辺城に攻め込みます。

この時代は豊臣秀吉が死亡した直後なので政治の中心は大坂城にありました。そして、石田三成は、徳川家康会津上杉景勝を討伐するために東海道を下り江戸を通過したあたりを見計らって大坂で挙兵していますので、まずは地盤固めのために大坂・京都周辺を押さえていこうと考えたのです。

 

この伏見城攻めおよび田辺城攻めはどちらも最終的には西軍(石田三成)が勝つのですが、どちらの城攻めにおいても三成にとっては予想外の苦戦を強いられることになります。今回の記事ではこの2城のうち、田辺城攻めのエピソードを取り上げたいと思います。

 

丹後田辺城攻めにあたって、石田三成は大軍を投入します。一方、城を守る細川幽斎は、自国内の全ての城を焼き払い、兵力を全て田辺城に集中させましたが、その数は西軍に対して明らかに少ないものでした。当然、西軍は田辺城を蹴散らしてすぐに次の城攻めにかかるつもりだったと思われますが、実際にはこの田辺城を2ヶ月近くも落とすことができませんでした。西軍による田辺城攻めが失敗した要因は、主に城を守る東軍のモチベーションが非常に高く、逆に西軍のモチベーションが著しく低かったことにあります。

その理由としては、

1 石田三成が相手を怒らせてしまった

2 城を守る細川幽斎が、非常に名の通った文化人だった

という2つがあげられます。これについて、以下で見ていきたいと思います。

 

1 石田三成が相手を怒らせてしまった

挙兵した石田三成は、まず全国に散らばる武将達を一人でも多く味方につけようとしました。ここで、各大名から豊臣家への人質(服従を保証するための保証人)として大坂に住まわされていた、各大名の妻や子どもを誘拐して、自分の下に人質として取り込もうとしました。この作戦は加賀の前田利政ら一部の大名・武将に対しては有効に働きましたが、逆に誘拐が失敗して逃げられてしまった例なども多く、あまりうまくいきませんでした。特に、細川幽斎の嫡男(家督を継ぐ息子)である細川忠興の妻。細川ガラシャは、西軍に同行することを強く拒否し、自ら命を断ってしまいました。(ガラシャキリシタンだったため、自刃することはできず家来に自らを刺し殺させたと言います。丹後田辺城を守る細川幽斎は、当然義理の娘を無残な最期に追いやった石田三成に対して非常に憎悪を燃やしていたことでしょう。これが城を守る東軍のモチベーションが高かった理由です。

 

2 細川幽斎が非常に名の通った文化人だった

一方、西軍の田辺城攻めに対するモチベーションが低かった要因には、城を守っていた細川幽斎が歌道を通じた文化人であったことが挙げられます。西軍に加わっていた諸将の中には、こうした文化を通じて幽斎と深い親交のあった大名も多く含まれており、また幽斎は彼らの「先生」のような立場にあたるような人だったため、とても本気で城攻めを行うことができなかったといいます。さらに、西軍の攻撃を2ヶ月近くしのいだ後に幽斎は勝ち目がないことを悟ると、天皇の弟に歌道の奥義を伝授するということをほのめかします。天皇の弟は何がなんでも歌道の奥義を知りたいので、この合戦で細川幽斎を殺させるわけにはいきません。すぐに田辺城に飛んでいき、幽斎に和睦をすすめます。ところが、幽斎はここで和睦のすすめを断り、決死であることを和歌で天皇とその弟に伝えます。

古も 今もかわらぬ 世の中に

こころのたねを 残すことのは

最終的に幽斎は和睦を行いますが、その頃には合戦の日が近づいてきており、ここで足止めを食らった西軍の軍勢は本戦に間に合うことなく戦いを終えることになりました。

 

現代でこそ、文化的な国力は「ソフトパワー」と呼ばれ、外交戦略上非常に重要視されています。(昨今日本で叫ばれている「クールジャパン」もその一例といえます)しかし、当時はおそらくソフトパワーという言葉はもちろん、そんな概念も存在しなかったはずです。論理的に戦をすすめれば勝てるはずと踏んだ三成は、東軍と西軍の間のソフトパワーの有無を読み違え敗れたともいえます。関ヶ原合戦における田辺城攻めは、ソフトパワーが現代的な概念でありつつも、当時から大きな力を持っていたことを伺わせます。