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関ヶ原にまつわるエピソードその2:大友義統

関ヶ原合戦は、よく戦国時代の最後のクライマックスと形容されます。

ただ、実際には関ヶ原の頃はもう戦国時代は終わっており、江戸時代の黎明期と考えたほうがよいように自分は思います。

 

戦国時代は各国の領主である大名が思い思いに年貢を徴収し、兵役を課し自国内を統治していましたが、秀吉の太閤検地によってそれらは統一され、一つの基準のもと運用されるようになりました。この時点で一度戦国時代は終わったと考えられます。

 

石田三成の挙兵は、終わった戦国時代をこの世に再度よみがえらせようとする試みでした。戦国時代とはすなわち下剋上の世の中で、一度決まった身分をいかようにも変えることができる世の中のことです。

 

最終的に合戦は西軍が破れ、下剋上が成ることはありませんでした。しかし、関ヶ原を合戦当日のみではなくもっと広い視点で見ると、この挙兵を千載一遇の機会ととらえ、下剋上に果敢に挑戦したエピソードが数多くあります。その一人が九州の大友義統(おおともよしむね)でした、大友氏は古来より九州北部を統治する名門で、戦国時代の後期には龍造寺家、島津家と九州の覇権をあらそっていました。その版図は義統の父である宗麟の時代が最大でしたが、時代が下り義統の代になると、秀吉の怒りを勝って所領を没収されてしまいます。石田三成の挙兵に下剋上の再来を感じた義統は毛利輝元の支援を得て西軍方として挙兵、旧領の回復を狙って豊後へ侵入します。これを石垣原の戦いで防いだのが黒田如水でした。一旦は大友の勢いに完全に押されていた黒田軍はしかし遅れて増援が到着すると一気に巻き返し、最終的には大友義統を降伏に追い込みました。

 

他にも全国各地に「旧領の回復」を狙って挙兵した武将が多くいました。彼らが石田三成の挙兵を最後のチャンスととらえていたかはわかりませんが、事実ここで東軍としてチャンスをつかんだ者はその後江戸時代の終わりまで続く名家となり、敗れた者は市井にかえっていくことになりました。

 

ところで、石田三成は豊臣政権下で太閤検地の実務担当者として辣腕をふるったことから出世の道を歩みはじめたと言います。戦国時代を終わらせる太閤検地を実施し、自らの手でそれを無に帰さんとクーデターを起こすとはなんだか因果を感じさせる人生です。