UCHEW-NISSHI

Tokyo Based DJ KNK's Blog - 音楽関連、東京近辺のパーティ情報、各地の旅先での音楽に関連した散策、読んだ本や見た映画について

越えられない物語

2010年年始、何度目、と数えることすらできないが、司馬遼太郎の作品が書店の店頭を賑わせている。96年の死後、彼の地位はますます確固たるものとなり、彼が生きていた時にはその名前すら知らなかった僕のような人間にも多大な影響を与えている偉大な作家として認知されている。これで彼がただの小説家であるならば、その作品は文学として何年にも渡って読まれ、おそらく数十年後には僕が夏目漱石を読んだように、現代文の課題図書として選出されていただろう。問題は、彼が時代小説家であるということである。
民族誌が現在形で書かれることによって、そこに書かれた内容が普遍的事実であるかのように受け取られ、あくまでも1人の学者がその視点から一時点を切り取ったものにすぎない、ということが隠されてしまう、そのような問題を文化人類学では「民族誌的現在」と呼ぶ。そして、同じ視点は時代小説に対しても持たれて然るべきである。当然、時代小説はあくまでも「小説」なのであり、事実とは異なる。現在のエンターテイメント的な時代小説と向き合うときは我々はそれを自覚している。しかし、司馬遼太郎歴史観はあまりに我々の深層に入り込んでいるため、我々はそれをしばしば忘れてしまっているのではないだろうか。
歴史・記憶をひっくるめ、過去は事実ではない。それはあくまでも様々なピースを結びつけた物語である。その物語はしかし、我々の現在を規定し未来に対する指針となる。そして、我々の歴史観の大元は、すでに15年近くも昔に亡くなった人間に多大な影響を受けて形成されている。司馬遼太郎に賛同しようがしまいが、我々は一度そこから離れて相対的に歴史を眺める術を手に入れる必要がある。
昨年末からのドラマ化の波、そして来年の没後15周年という波。おそらくは司馬遼太郎はこれから1年以上に渡って書店で大々的に取り上げられていくだろう。その彼の作品に対して我々は素晴らしい文学に対する賞賛と、歴史・過去という物語の規定という作為をしっかり峻別して向き合うことが必要になる。
もう語られつくされていることではあるが、改めて自戒の念を込めて。